町長日記 平成28年11月19日(琴の会)
琴の会
東浪見北部・稲荷塚の明法院で、午後のひととき、中国の「琴」(qin,きん)或いは「古琴」(guqin,こきん)の演奏会が開かれ、ご住職の秋場日信氏からお誘いを頂きましたので、出かけました。武井(高)欲生先生と仰る中国広東から日本に移住された方が、お弟子の皆様とともに演奏をなさいました。先生は「陽関三畳」「酒狂」など、ポピュラーな曲を披露下さいました。
また、同時に、吉田草風先生(日本礼道小笠原流)のご指導による、煎茶の接待もございました。40名ほどの方がお見えだったと思います。皆さん、秋の一日、中国古典文化の風韻を楽しむことができたかと思います。わたくし自身、30歳代のころから、東京・小石川にお住いの坂田進一先生率いる「東京琴社」に加入し、「琴」の演奏を学んできましたので、今回の演奏会は大変心惹かれるものがありました。東京琴社は清明琴会・重陽琴会と春秋の二回演奏会を開く慣例でしたが、その琴会の際の緊張と、まずまずうまくいったときのホッとした感覚、うまくゆかなかったときの悔しい感覚など、暫くぶりに思い出しました。
ひとつだけ申し上げると、はじめからお弟子さん方のおさらいが続き、最後になって先生の演奏だったのですが、お弟子さんのおさらいの曲と、先生のプロフェッショナルの曲と、交互に弾いて頂き、修行中の段階と、到達後の段階とわかりやすく示して頂けたらよかったと思います。楽器としてのダイナミックな表現力の広がりを聴衆に的確に伝えるには、この形がよかったと感じます。
《「琴」について》
さて、中国の楽器で、「琴」(qin)或いは「古琴」(guqin)というのは、日本でふつう「お琴」(おこと)といっているものとはずいぶん違います。まずサイズがずっと小さい。1メートルちょっとしかない。また、日本の「お琴」は13本の弦がありますが、「琴」は7本しかない。
また、これも日本の「お琴」には必ずある、弦の長さを板面の途中で調節するコマのごときもの、いわゆる「ことじ」を「琴」は使いません。さらには、日本の「お琴」は爪をつけて弾きますが、「琴」は爪をつけずに弾きます。
実は、中国にも日本の「お琴」と同じく、大きく、13弦で、「ことじ」があり、爪をつけて弾く楽器があります。これは筝(zheng)といいます。実は日本の「お琴」も「筝」ともいいます。中国では、「琴」と「筝」とは違うものだと、多くの方が知っています。では、日本ではなぜ両者の区別がなく、「琴」と「筝」の二つの字が同じ楽器、「おこと」に使われるのでしょうか。そこには、以下のような事情があったと思われます。
奈良時代から平安時代にかけて、中国に留学した人々や、半島系の人々を通じて中国の楽器とその演奏法もはじめて日本に伝えられたと考えられます。その中で「琴」や「筝」も日本に紹介されたと思われます。当然、日本でも、中国由来の「琴」と「筝」は違う楽器と認識されていたと考えられます。しかし、問題はこれらに似た弦楽器が日本にもそれ以前からあって、それらを全体として「こと」と呼んでいたこと、そしてその「こと」全般に対して「琴」の字を当てることが行われたことです。そして、中国由来の「琴」と「筝」については、「きんのこと」「そうのこと」といいわけることになりました。
そのうち、「きんのこと」の演奏がすたれて、「そうのこと」の演奏だけが日本では流伝することになりました。そのなかで、「そうのこと」は「こと」と簡称され、それにあてる漢字として、「琴」も「筝」をもつかわれて、いつのまにか「琴」が主流になっていった、ということのようです。
たいへんくだくだしいお話しで恐縮ですが、言葉の用法の混乱というのは、その多くがこうした複雑な経緯の上で成り立っています。
さて、こうした「琴」と「筝」ですが、中国では、一貫してはっきりとわけられていました。「筝」は、華やかではあるが、芸能者の操る卑俗な楽器に位置づけられるのに対して、「琴」はおのれの志操を託して知識人(士、或いは士大夫という)が弾く高雅な楽器であると考えられてきました。中国では、音楽が人の情操に与える影響を大きくとらえる発想が古代からあり、「琴」は士が己の心を整え志を託す楽器として、『論語』などにも頻繁に登場しています。
もちろん、楽器ですから、誰もが上手というわけではなかったわけです。東晋の時代の有名な詩人陶淵明(365-427)は、「琴」が弾けずに、壁に無弦の「琴」を掛けて、酒に酔うとこれをいじって「エアー」演奏を楽しんだ、といったということが伝えられています(『宋書』隠逸伝)。明末清初江南の知識人・張岱(1597-1689)の『陶庵夢憶』にも、友人と「琴」の学習サークルを作ったが、難しくて途中で何人もやめてしまった、ということが書いてあります。
しかし、そうはいっても、中国の「士」・「士大夫」にとっては、「琴・棋・書・画」と並列されるように、「琴」を演奏することは、標準的たしなみとして位置づけられていたわけです。
こうした中国の「琴」は、日本へは、奈良から平安時代にかけて流入し、「きんのこと」としてある程度演奏が行われました。『宇津保物語』をはじめ平安期の古典の中にその姿を伺うことができますし、雅楽の中にもそれは残っています。しかし、武家社会の到来とともに、中国の「琴」の演奏は途絶えてしまいました。
その後、江戸時代になると、平和な時代になり、広範な人々が文化活動に関与する余地が生じてきましたが、その中で、長崎貿易を通じて大量な中国文物が流入し、日本では中国文化の受容が従来よりも広く深く行われるようになりました。
江戸時代初期に、中国で明から清に王朝が交代したことにより、「琴」をたしなむ中国人が直接日本に移住してくることもあって、日本の儒学を学び漢詩文を作る知識人を中心に、「琴」の第二次受容がはじまりました。江戸時代後半には、漢詩の作成や、明清時代の中国のお茶の飲み方をベースにした煎茶のたしなみが大流行しましたが、こうした志向とも相俟って、「琴」への興味は知識人の間に行われました。江戸後期の有名な画家、浦上玉堂(1745-1820)も、「琴」を愛した人物として有名です。
明治以降、脱亜入欧をめざす日本は、同時代の中国を睥睨し、欧米を志向する基本的な姿勢をとりましたが、その中で、江戸時代後半の中国文化受容の形は主流から転落してゆくことになりました。「琴」もそうした変化の中でふたたび忘れ去られることとなりました。
現在、日本における「琴」の受容は、第三期に入ったと言ってよいでしょう。本場中国では、清末・民国から文化大革命までの間は混乱が続き、「琴」どころではなかった、というのが真相であろうと思われます。しかし、現在は若い人にも、中国文化のエッセンスのひとつとして意識されるようになり、学ぶ人も増えているといいます。日本にもそうした流れの先に、中国との直接交渉をふまえて流入し始めたわけです。今度は直接中国大陸にアクセスできるというところが、過去とは決定的に違います。日本の「琴」は、今後、かつてのような広がりをもつことができるでしょうか。それは今後の状況如何というべきだと思いますが、ひょっとしたら天才が現れて、表現の限界を大きく広げつつ、時代をリードする人気者となってゆくかもしれません。