町長日記 平成29年1月26日(長生郡市障がい者芸能大会に出席)

長生郡市障がい者芸能大会に出席 

 一宮館で開かれた、長生郡市障がい者芸能大会に出席しました。この会は、障碍をお持ちの方々と、障碍を現在持っていない方々が、歌や踊りを披露しあって、楽しむ会です。カラオケが中心でしたが、皆さまの日頃からの愛唱歌が多く歌われて、楽しい集まりでした。 

●「健常者」と「障碍者」は地続き

 私がいつも思うのは、障碍というのは、程度問題であって、所謂「健常者」から障碍をお持ちの方々を区別しなければならない本質的な違いは全くない、ということです。所謂「健常者」とて、実のところ、色々な不自由なことが沢山あります。しかも、所謂「健常者」も、いつ病気や怪我で、より不自由になり、「障碍」をもつようになるかもしれません。それは、自分はもとより、家族や近親にもいつでもどこでも起こりうることです。また、実は今後、再生医療などの発達で、現在「障碍」をお持ちの方々も、将来それを解消できる可能性もあるのです。つまり、所謂「健常者」と「障碍者」は、徹底的に地続きなのです。このことを常に根底にすえてものを考えないと、優生思想などといった歪んだ差別的な考えが出てきてしまいます。こうした考えは、自分で都合よく基準を立てて、その基準に達しないものに、勝手に有害無益というレッテルを貼って排除してゆく考えで、大変に視野狭窄なものです。私には断じて容認できない考えです。

 勿論、自分に危険を与えるもの、たとえばヘビやムカデを異物視して、それを排除してゆくことで自分を守る、というのは、サルにも人間にも本来具わった自己防衛本能の一部です。だとすれば、人間の中に、そうした排除の発想が出てくること自体は、どうしようも無いことです。しかし、それが同じ人間同士の間で発動されるとなると、大いに問題です。そういった排除の発想は、外国人排斥などのかたちでよく見られるものですが、きわめて危険なもので、猛毒をもった発想です。他者を不当に排除し、攻撃することでおのれを守るとすれば、実はその攻撃性・自己中心性は、発動する人自身の心にも深刻な負の影響を与えます。こうした人は、自分以外の人と、本当に信頼感をもって友愛的に関係を取り結ぶことができなくなります。本当の意味で心が安らぐことはなくなり、不安と焦燥の持続のなかで生きてゆくことになります。そういう意味で、排除と攻撃性の発想は、猛毒なのです。この毒を野放しにしてはいけません。排除の論理、攻撃の論理は、人間社会の中では、常に最小限の発動にとどめるべきだというのが、わたくしの基本的な考え方です。

●『荘子』の「道」の考え方からすると、「全てはみな平等」

 『荘子』の中に盛られた発想からすれば、この宇宙万物を生み出し、根底から支えている時間空間を越えた永遠の実在、「道」から見れば、すべてはひとしなみに平等であり、なんらの区別はないといわれます。貴賎高下美醜などの区別を立て、お互いに争うのは、「道」から生じた万物が、それぞれの立場に局限されたところで狭い見方にとらわれた結果生ずる現象で、これにとらわれている限り、人は決して真の充足は得られない、といいます。「道」の存在に目覚め、「道」のとらわれない見方をおのれのものにすること、これが人間を苦しみと不満から解放する唯一の方途だ、ということです。

 わたくしは、いまだ「道」への目覚めを体感するほどには至っていませんが、「道」の立場に近づきたいと考えています。