町長日記2020年9月8日(男女共同参画計画の作成)
今日、企画課長から、一宮町で「男女共同参画計画」を作ることについての問題提起がありました。県下で作成していない自治体は少なくなっているということで、県も勧めているそうです。一宮町も作る方向で考えよう、と話しました。
男女共同参画ということでの、ポイントはいくつかあるようですが、いわゆるジェンダーによる差別をなくし、特に、女性の社会的活動の可能性を、男性と同等まで拡充してゆこうというのが主眼です。
女性の社会的活動の範囲を強く制限し、とくに「イエ」の長としての役割を極力男性だけに限定してきた江戸時代以来の日本の社会では、なおも社会生活における男女の差別は多く残っています。また、各家庭の中での、ジェンダーの沿った役割分担も、かなり固定的なものがあります。
しかし、実は、誰もが快適に過ごすためには、こうした慣習を改めてゆかなければなりません。男性女性の区別をうんぬんするより、その人自身の各方面の能力によって、社会的活動の幅は決められるべきでしょうし、家の中での作業分担も、実情に合わせて様々な組み合わせがありうるはずです。
それ以前に、そもそも、社会的ルールとは、自他ともに受け入れられるものでなければ、無効だと思います。自分と相手の立場が逆であって、相手から同じことを主張されたとしても、自分が受け手として、その通りだと思って納得できるものでなくては、真の共有物とはいえません。「差別」的構造に支えられた上下の傾斜を伴うルールは、そうした相互性・互換性をもちません。こうしたもので自分を支えること、とくに優位に身を置き続けることは、わたくしは卑怯なことだと思います。男女の間の差別も、そうした卑怯さと不可分なものだと感じます。
今後、策定に進む一宮町の「男女共同参画計画」が、日本社会にいまなお色濃く残る男女間の差別を取り除いてゆくことに、なにがしかの効力を発揮できれば幸いだと思います。
一方で、現代では、性別の自明性もゆらいでいます。そうした中では、男女に区分しない方が良いのかもしれません。ただ、歴史的には「男女」の二分法で規範が作られてきましたから、これを打ち破るには、まず「男女」の枠を残すのも、歴史的な文脈の中での第一歩としては、受け入れられるものといえるでしょう。