町長日記 10月16・17・18日(議員視察研修に同行)
10月の16日から二泊三日で、議会の皆さまとご一緒に、バスに乗って視察旅行に出かけました。以下はその折の記録です。
まず、はじめに東京都の稲城市に伺って、スケートボード場を拝見しました。これは最近、サーフィンとも類縁性があって、町民の方々から、一宮町にも練習場がほしい、というご意見を頂いている競技です。
稲城市のスケートボード公園は、多摩川のほとりのスーパー堤防の上に設営してありました。比較的こじんまりした感じです。広場全体がアスファルトで舗装されており、その中にいくつかの、スケートボードで上ったりおりたりするための設備がしつらえてありました。上り下りがうるさいということで、ゴムを板の下に張ったり、防音壁を作ったりと対応がされていましたが、防音壁だけで数百万円かかったということで、びっくりしました。実は文句をいった人は1人だけだったのだそうです。
広場内に設置されていた、左右にいったり来たり、或いは上ったりおりたりする装置は、約500万円でできるそうです。これならわが町にも、オリンピックのレガシーとして、釣ヶ崎に予定されている自然公園内にも導入できるかもしれないね、と高田オリンピック推進課長と話しました。
雨が降る中、そこから次の目的地である長野に向かいました。善光寺におまいりしたあと、本来なら長野の門前町のリノベーションの具合を見る予定だったのですが、雨がひどかったので、バスで移動しました。企画課の小柴さんのお話では、数十軒の古民家や店舗が再生されて稼動しているとのことですので、是非見たかったのですが残念でした。小柴さんはかつてこの長野の旧市街地再生に尽力されたそうで、是非見てみてくださいといっておられたので、次回にはきちんと見たいと思います。夜は長野駅前のホテルにとまりました。
次の日は、白馬村に向かいました。白馬村は、98年に長野冬季オリンピックのスキー種目、ジャンプやクロスカントリーをやったところです。ジャンプ台は、全部で70億もかかったそうで、県と村でだしたそうです。一方クロスカントリー場は村単独で作ったそうです。また体育館も村で作ったということで、年間の一般会計60数億の村にしては、たいへん挑戦的な投資をされたようです。これは、なんといってもスキーに全村の経済の帰趨がかかっていて、しかもオリンピックの誘致を村全体が前のめりに支持していたことがあったようです。いずれにしても、現在の一宮では考えられない設備投資の規模です。
現在は、ジャンプ台は村としては年間1000万円の赤字、クロスカントリーも赤字だそうですが、こわしてしましまって閉鎖という選択は今のところ決してない、ということでした。白馬村にとっては、オリンピックが最高の宣伝になっているといっていました。現在、最高時には400万人近く来ていた観光客がたいへん少なくなり、200万人だそうです。特に日本人が減ってしまい、そのかわりに外国人が多くくるようになったそうです。オーストラリア人が多く、しかも、長期滞在が多いというお話でした。そして、彼らは宿泊所で食事をするのではなく、外で飲食するので、飲食店が足りない、ということでした。白馬は、冬は、英語ばかりが話される白人の町になってしまうそうです。
白馬村は、スキーにかけていました。おそらく、江戸時代には、大町から糸魚川に出る街道の沿線で、宿場機能も果たしていたと思いますが、平地がすくないことから耕地はあまりとれず、他にはかばかしい産業も無いということで、誤解を恐れずにいえば、貧しいほうだったのではないでしょうか。明治以降、ヨーロッパから登山とかスキーとかが入ってきて、白馬はその好適地として注目されることになったわけです。そのなかで、地域の方々の多くが夏の登山や冬のスキーという観光業に生業を求めるようになっていったのだと推測します、いま、村内には800ほどの宿泊施設があるといいます。いかに旅行に村の経済がかかっているかがわかります。
ひるがえってかんがえてみると、一宮は少し違います。江戸時代には地引網の産業が栄えました。また戦後には農業がたいへん栄えました。一方、現在では東京への通勤が便利になり、ベッドタウンという要素も顕著です。こうしたことをみると、観光「のみ」にかけるという心性は、一宮にありません。その中で、たとえば現在サーフィンは勿論大事な柱ですが、それだけが町の唯一の産業ではないということも事実です。こうした、多面的な機能をもった町であること、これが一宮町の白馬村とちょっとちがうところだと感じました。
ジャンプ台にも上らせて頂きましたが、なかなか恐ろしい高さでした。巨大な施設で、大きな五輪マークがついています。この五輪マークがあることが、いかに大事か自覚してほしい、と白馬の議員さんが仰っておられました。一宮でも五輪マークを設置することになると思いますが、どんな感じになるのでしょうか。
なお、個人的なことですが、白馬村の神城というところの中村荘という民宿に、大学生のとき、尺八部の合宿で夏に一週間滞在する、ということを、数年間繰り返しました。その折に、小さな娘さんが、二階にぐったり雑魚寝状態で寝ているわたくしたちの枕元に走ってやってきて、「お食事にしてくださーい!」と叫んでいたのが、昨日のことのように思い出されます。ところが、そのなつかしい中村荘は、その後、地震で倒壊して、建て替えられたと伺っています。その折にはわたくしも若干の寄付を尺八部OB会を通じてさせていただきました。今回は久しぶりに白馬村に伺って、機会があれば中村荘も拝見したいと思いましたが、とてもそんな余裕はありませんでした。次の機会を待ちたいと思います。
白馬村で思いのほか多くの時間を費やしたので、当初訪問する予定になっていた上田城を割愛し、海野宿というところの見学へ向かいました。ここは北国街道の宿場で、江戸時代の町並みが大変よく残っていました。しっとりとした、よい風情の宿場でした。ところが、町外れの神社の前にあるみやげものやの店員さんが、話を聞いてみるとなんと一宮カントリーでゴルフをしたことがあるということで、びっくりしました。どこにどんなご縁があるかわかりません。
なお、以下に記した俳句は、此の町を訪れた際に海野宿即事の句として詠んだものを修正したものです。原型は「秋暮れて宿場をよぎる人もなし」でしたが、少し改めてみました。元の句は、宿場を歩きながらふと見ると、路傍に投句箱が設置してあったので、急いで一句ひねって投函したものです。海野宿の俳句コンクールで秀賞に選ばれたと言うことで、あとから賞状と賞品の図書カードが送られてきました。予想もしなかったことで、大変名誉なことでした。
秋暮れて宿場をよぎる影もなし
夜には、諏訪湖のほとりに宿泊しました。次の朝、諏訪湖と高島城を見学にでかけました。諏訪湖の水質はあまりきれいでないと泊まったホテルの人はいっていましたが、結構きれいにみえました。湖のほとりの位置にある草地に、モンキチョウがいっぱい留まって羽を休めていました。わたくしが見ているうちに、朝日の中で一匹また一匹と飛び上がり始め、いつのまにかたくさんの黄色い蝶が舞い乱れるようになった光景には、思わず目を奪われました。
高島城は諏訪湖のほとりにある城で、かつては諏訪湖に直接面していたらしいですが、今は市街地の中に位置しています。高島藩は、江戸時代を通じて領内に一揆のない藩として知られたところだそうです。現在は天守閣が復元されており、なかなか見事なところでした。
そのあと、諏訪大社の見学をしました。ここは、御柱祭の勇壮な神事で有名なところです。わたくしどもは下社の春宮と秋宮を見学しました。そのあと、買い物の時間がありましたので、わたくしはその時間を使って、下諏訪宿の本陣跡にゆきました。ここは、江戸時代からの建物がのこっており、幕末に和宮様が徳川家茂に降嫁するとき、泊まった部屋という座敷が保存されていました。そのおりの行列の警護隊長は、加納久徴候でありました。加納候は、洞庭湖を整備して命名した、わが一宮の藩主です。そのご縁で、和宮様の泊まられたお部屋を一見させていただきました。この本陣は、元の所有者が持ちきれなくなったあと、土産物屋や、わたくしどもがとまったホテルの経営をしている地場産業の会社が買収して経営しているとのことでした。
下諏訪には、有名な塩羊羹があります。新鶴というお店です。下社の秋宮のすぐそばにあります。わたくしはお店を訪れてみたのですが、お休みでしたので、注文書を書いて、ポストに入れておきました(後日届きました)。
その後、みなで甲州に向かい、一宮町と友好関係にある笛吹市を表敬訪問いたしました。もとは、山梨県一宮町が友好町で、盛んに交流があったのですが、一宮町を含めて周辺市町村が合併して笛吹市になったものです。現在は、サイズも少し不釣合いになりましたので、以前ほどの交流がないのが残念です。
副市長さんと議員さんがたが迎えてくださいましたが、お互いの自己紹介のなかで、これまでの交流の実績にも話が及び、特に古参の議員さんがたは、大変盛り上がっておられました。議員さんのおひとりがブドウ農家でいらっしゃるということで、おいしいブドウ各種の試食とお土産を用意してくださいました。試食に供していただいたブドウはいずれも大変あまく、美味しくいただきました。また、これで公務はおわりでしょう、ということで、甲州ワインの試飲も用意してくださいました。
笛吹市議会の議場も拝見しましたが、一般質問はひとり15分と決まっている、とのお話で、議員さん方は、「一宮も導入したほうがいいんじゃないか?」と冗談を飛ばしておられました。
笛吹市との交流は、上にも記したように、最近は低調になってきています。かつては隔年で剣道団体が訪問しあったり、ということがあったと伺っています。今後、サイズの不整合などの問題を踏まえながら、関係の再構築が必要だと思います。
その後、桔梗信玄餅の工場の見学などをへて、一宮へ帰りました。「いちふく」さんで砂払いということで皆さまと食事をともにして解散しました。二泊三日の長旅でしたが、得るものの多い旅でした。企画を立てていただいた視察幹事の藤井副議長・小林議員・藤井(幸)議員はじめ、お誘いいただいた議会議員の皆さまに御礼を申し上げたく存じます。ありがとうございました。