町長日記 11月13日(都市環境課との打合せ)
今日は、金曜日に伺った、16区の草刈りの後の刈った草回収の件で、都市環境課の皆さんとお話しをしました。これは、16区の皆さんから、一宮川沿いのコスモス通りの草を刈ったあと、刈った草の回収を町に依頼したところ、回収はしていません、という回答があった、ということに関することでした。これまでは町で回収していたのに、不可解だということで、16区の民生委員の桑島さんから、わたくしの方にお問い合わせを頂いたものです。
担当課に問い合わせてみると、連絡の不十分さに起因した単なる行き違いだったようで、都市環境課のスタッフ諸君は、直ちに回収を済ませてくれて、ありがたく存じました。16区の皆様にも、喜んでいただけました。
それにしても、草刈り問題は深刻です。昨年の町長日記にも記したのですが、町有地の草だけでも、いつも草のない状況にしておくことはできませんし、膨大な私有地の草に至れば、もういかんともしがたいというのが実情です。
かつては、馬や牛は生活上必要な家畜であり、農耕や運搬に不可欠な存在でした。そして、それらの家畜は草を食べるので、牛馬の餌を確保する営みとしての草刈りは大変重要な日常の作業でした。また、枯れ枝などは薪になり、毎日の炊事や風呂焚きを支えていました。柴刈りというのは、生活の一環としてやらなければならなかった作業です。また、落ち葉は積んでおいて、堆肥とし、肥料に使ったわけです。花や実を享受するだけでなく、膨大な量の植物の“死骸”が、人間の暮らしを本質的に支えていたのです。それがエネルギー革命によって、全く用いられなくなってしまいました。牛馬はガソリンで動くトラクターや車に置き換わり、炊事や入浴はガスや電気で行うし、肥料も石油などから化学工場で生産する工業製品に置き換わりました。そこで、かつて、数十年まで、生活に不可欠な“資源”であった植物の“死骸”は、誰もいらなくなって、単なる“邪魔物”になってしまったわけです。となると、こうしたものを採集・収集することは、なにも直接的利益に結びつかないので、誰もやりませんし、始めたとしても、作業の大変さと、精神的満足とのバランスがとれる間は大丈夫ですが、長く続くことは期待できません。諸般の事情で息切れしてしまったとき、やめても生活の本質に結びつくほど損害が大きくならないので、やらない選択が選ばれてしまうことを結局は阻止できません。
こうした状況の中で、人口減と高齢化の進行という事態が降りかかってきつつあります。草刈りが、また林床の枯れ枝・枯れ木・落ち葉の収集が、利益に結び付く展望を開かないと、草がしげり、森や林が荒れることの加速度的進行から永遠に逃れることができません。木材を原料としたプラスチック生産とか、バイオマス発電とか、それに関する新技術が開発されてきていますが、更に生産性のよい技術を専門家諸氏に開発して頂けることを切に望むものです。